エンドウ・アソシエイツのデザイン


新宿京王百貨店

■ 新宿京王百貨店

私達が、どういった建築づくり、街づくりを目指しているかをお伝えします。 その前に、私達の事務所の礎を築いた圓堂政嘉の建築づくり、街づくりの考え方をお伝えすることが、私達の建築づくり、街づくりの考え方を理解していただく近道だと思いますので、その話から始めます。

圓堂政嘉は、アメリカ・マニアと言っていいほどアメリカ文化が大好き人間でした。当然建物もアメリカン・スタイルのシンプルなデザインのものが好きでした。彼が残した建築作品にはその嗜好が色濃く出ています。 彼が生涯取り組んだ命題の一つに、「建築の工業化」があります。その中で特に積極的だったのが「外装のカーテン・ウォール化」です。外装の工業化が比較的易しいオフィス・ビル、商業施設、工場等の設計にあたっては、外装をカーテン・ウォールで覆い、建物全体をアメリカン・スタイルのシンプルで美しいデザインにまとめることが、常に彼が自分に課した課題でした。

彼が「建築の工業化」にこだわったのは、彼が本格的に設計を始めたときの日本の建設業界の事情にあります。 当時の建設工事は、工事工程のほとんどを、現場で加工し組立てる方法、つまり現場仕事で工事をしていました。当然、各工事の出来栄えは、工事を担当する現場の職人や技術者の腕に依存していました。現場仕事の多くが、やり直しが利かない一発仕事です。担当の職人や技術者の腕が良くない場合や腕が良くてもミスした場合には、出来栄えが良くない結果となって跳ね返ってきます。 一方、工事現場は「きけん・きびしい・きたない」の3Kを代表する仕事場です。そのため、年々建設労働者の成り手が減少するとともに、現場仕事を行う技術者が高齢化し、高度な技術の継承が難しい状況になっていました。こうした工事体制がそのまま継続すれば、いずれ建物に要求される基本的な品質や性能の確保さえおぼつかなくなる日がくることが予想されていました。

これを打開する一石二鳥の方策が、「建築の工業化」でした。建物を構成する建築部位のうち、工業製品化が可能な部位を、できる限り品質管理の目が行き届く工場で製品化し、現場での仕事はそれら製品の取り付けだけに限定した工事体制にすることでした。そうするで、現場での工事を減らし、結果、現場工事従事者を減らすことができ、現場担当者の腕に頼ることが少ない、一定の品質が見込める工事が可能となります。

こうした事情から、圓堂政嘉は、早くから「建築の工業化」の必要性を顧客に説き、設計を委嘱された建物について、「外装のカーテン・ウォール化」し、シンプルなアメリカン・スタイルの建物に仕立てていきました。 彼の「外装のカーテン・ウォール化」への取り組みの成果の代表的なものが、メタル・カーテン・ウォールでは山口銀行本店 (1962年)、虎ノ門実業会館ビル(1963年)、新宿京王百貨店(1964年)、ヤクルト本社ビル(1972年)、大洋漁業本社ビル(1978年)であり、プレキャスト・コンクリート・カーテン・ウォールでは七十七銀行東京支店(1963年)、日本コカ・コーラ横浜プラント(1964年)、山之内製薬焼津工場(1970年)です。これらはすべて彼の作品としては初期の作品ですが、彼が最も脂の乗った時期の作品であり、結果として圓堂政嘉の代表作品になっています。このことだけでも、圓堂政嘉が「外装のカーテン・ウォール化」にいかに意欲的に取り組んだかの証左になります。 私は、これらの作品を、日本のカーテン・ウォールの魁になった作品と位置づけるだけでなく、その出来栄えの美しさから、名建築の仲間に入れても決して恥ずかしくない作品だと思っています。

特に新宿京王百貨店のカーテン・ウォールの美しさは秀逸です。新宿西口の超高層街も、隣の小田急百貨店、西口ロータリーもない頃の1964年に、この建物は完成していますが、現在見ても、デザインに古びたところがなく、つい最近完成した建物かと見まがうほどです。当時の巨匠と呼ばれる建築家の手になる多くの建物が陳腐化していく中で、今なお通用する美しさを保っています。多くの日本の建築家がコンクリート化粧打ち放しの外壁に規則的にアルミサッシ窓を付けるだけのデザインをしていた頃に、あの巨大な全面カーテン・ウォール建物を完成させた圓堂政嘉の先見性と腕力に驚かざるをえません。