エンドウ・アソシエイツのデザイン


広尾ガーデンヒルズ

■ 広尾ガーデンヒルズ

圓堂政嘉はアメリカン・スタイルのデザインの建物が大好きでした。一方でヨーロピアン・スタイルのクラシックなデザインの建物も大好きでした。もともとフランスのボザール建築の権威であった中村順平先生に師事していたこともあり、彼の話の端々にヨーロッパの古典建築が話題に上りました。カーテン・ウォール建築が日本に定着しはじめた1980年代頃から、ヨーロピアン・スタイルでデザインした方が建物の目的に適うものについては、ヨーロピアン・スタイルでデザインするようになっていきました。そのきっかけとなったのが、広尾ガーデンヒルズです。

1985年広尾ガーデンヒルズ完成時全体写真 1985年広尾ガーデンヒルズ完成時全体写真

広尾ガーデンヒルズは、住友不動産、三菱地所、三井不動産、第一生命の共同事業によるものです。おそらく日本における初めての本格的な高級マンションでしょう。 広尾ガーデンヒルズの土地は、日赤中央病院の老朽化に伴う建替え計画において、敷地を半分にして集約高層化したとき、余った残り半分の敷地を事業提案方式による入札で取得したものです。そのプロポーザル案を弊社が作成しました。プロポーザル時の構想は、現状の形の、15棟の高層板状型マンションではなく、4棟の超高層タワー型マンションをつくる計画でした。

1974年広尾ガーデンヒルズプロポーザル時模型写真 1974年広尾ガーデンヒルズプロポーザル時模型写真
1974年広尾シティハウス竣工写真1974年広尾シティハウス竣工写真

広尾ガーデンヒルズの設計の当初は、プロポーザル時の構想通りに、超高層タワー型マンション案で検討を進めていました。圓堂政嘉は、そのファサード・デザインを柱・梁だけで構成するアウトフレームのアメリカン・スタイルでまとめるつもりでいました。ファサード・デザインを模型で検討するより、実際のスケールをもった実物の建物で検討する方が、よりリアルにデザインを検討できるということで、そのモデルとして実際に建設したのが、その当時竣工した広尾シティハウスです。右上が広尾シティハウスの竣工写真ですが、この写真に見るように、ファサードが、広尾ガーデンヒルズの超高層タワー案で採用しようとしていた柱・梁だけで構成するアウトフレームになっています。こうした実物モデルまで建設してしまうという取り組み方でも判るように、事業者も設計者も、超高層タワー型マンションの実現化に向けて検討を重ね、設計を進めていました。

しかし、超高層タワー型マンションを実現するには、時代がちょっとばかり早過ぎたようです。現在、東京には雨後の筍ようにタワー型マンションが立ち、超高層タワー型マンションは珍しくなくなりました。こうした状況になったのは、バブル崩壊後都市居住を促進するために打たれた、共同住宅プロジェクトに対する数々の「容積制限の緩和制度」や「優遇措置」の恩恵と、超高層マンションの躯体工事費を低減できる「HIGH‐RC造の技術の向上」によるところが大きいと言えます。 広尾ガーデンヒルズの設計当時は、そうした超高層タワー型マンション・プロジェクトを後押しする容積制限の緩和制度や優遇措置がなく、HIGH‐RC造の技術も実用には程遠い状態でした。このため、超高層タワー型マンションは、高層板状型のマンションに比べて事業効率が悪く、建設コストも割高で、事業性があまりよくない傾向にありました。当時は、超高層タワー型マンションを実現するには、乗り越えなければならない多くの障害が横たわっていました。 事業者は、こうした状況からプロポーザル時の超高層タワー型マンション構想をあきらめ、一転して、現状のマンション形式、つまり高層板状型マンション計画に事業方針を変更しました。この事業方針の変更は、それまで重ねてきた設計を無にし、一からのやり直しを求めるものです。設計条件の大変更です。圓堂にとっては相当ショックだったはずです。

この設計条件の大変更を契機に、圓堂政嘉は、広尾ガーデンヒルズのデザイン方針を、それまで実物モデルをつくるまでして検討を重ねてきたアメリカン・スタイルを放棄し、現行のヨーロピアン・スタイルの方向に大きく舵を180度切りました。それもそれまでほとんど実績がなく、圓堂がどちらかというと得意としないデザイン・スタイルへの変更です。私は、広尾ガーデンヒルズに係わっていなかったので、何故デザイン方針を180度切り替えたのか、その理由をよく理解していませんでした。

この設計方針の大転換に先立ち、圓堂はロンドンに旅行し、タウンハウス巡りをしています。2年ほど前図書を整理していたら、一冊の少し黄色くなったアルバムが出てきました。それは30年前その旅行の時に圓堂が撮ったロンドンのタウンハウスの写真のアルバムでした。いずれも四つ切サイズの写真で、ピムリコのリリントン・ガーデンズ・エステートのものが23カット、イスリントンのマルケス・ロード・ハウジングのものが19カット貼ってありました。 これらが、ロンドン旅行の後、圓堂が広尾ガーデンヒルズの担当設計スタッフに向かって、設計室中に響き渡る声で説明していたあのハウジング・プロジェクトの写真であることが直ぐわかりました。当時よく理由がわからなかった広尾ガーデンヒルズのデザイン方針の大転換の理由を、写真を見た瞬間私は理解しました。圓堂はその旅行でロンドンのタウンハウスに心底感動したのだと思います。その旅行で、広尾ガーデンヒルズ・プロジェクトに、ロンドンのタウンハウスのテイストを是非実現させようと決心したのだと思います。

下にロンドンのハウジング・プロジェクトの写真と、広尾ガーデンヒルズ・イースト・ヒルの竣工写真を掲げました。イースト・ヒルは、広尾ガーデンヒルズの中で最初に建設された建物で、圓堂が最も積極的にデザインに係わった作品です。圓堂はイースト・ヒルをデザインする過程で、広尾ガーデンヒルズ全体の景観デザインの方向性を打ち出すとともに、ハウジングのプランに対する彼の考え方を打ち出しています。下に掲げる三者の外観を見比べて見てください。建物の形体は違いますが、雰囲気が非常に良く似ていると思いませんか。 2009年の正月休みに私はロンドンに旅行し、タウンハウス巡りをしました。圓堂が30年前に撮った写真のハウジング・プロジェクトも見てきました。その旅行で、圓堂がロンドンのタウンハウスを雛形にして広尾ガーデンヒルズをデザインしたのではないかという、かねてからの私の推測が、確信に変わりました。

ピムリコのリリントン・ガーデン・エステート(1979年圓堂撮影) ピムリコのリリントン・ガーデン・エステート(1979年圓堂撮影)
イスリントンのマルケス・ロード・エステート(1979年圓堂撮影 イスリントンのマルケス・ロード・エステート(1979年圓堂撮影)
広尾ガーデンヒルズ・イースト・ヒル(1983年) 広尾ガーデンヒルズ・イースト・ヒル(1983年)

上掲の写真は、広尾ガーデンヒルズの南北に抜けるメインの通りのイースト・ヒルとノース・ヒルが竣工した時の写真です。写真右側が弊社設計のイースト・ヒル、写真左側奥が三菱地所設計のノース・ヒル、手前がサウス・ヒルの敷地ですが、まだ着工前でその仮囲いが見えます。竣工間もないため、通りのケヤキが高さ7~8m程度しかありません。

広尾ガーデンヒルズ・イースト・ヒル(2010年) 広尾ガーデンヒルズ・イースト・ヒル(1983年)

上掲の写真は、前掲の写真とほぼ同じ角度から撮影した現在のイースト・ヒルの写真です。ケヤキの高さが25mほどになり、通りは緑のトンネルになっています。竣工時よりずっとすばらしい環境になっています。圓堂政嘉は、こんなにすばらしい環境になると予測してデザインしたのでしょうか。