エンドウ・アソシエイツのデザイン


芸術家の目と手を持て

■ 芸術家の目と手を持て

圓堂政嘉が最も活躍した時代の建築デザインは、奇をてらいわざと建物の形体を不整形にし、外壁面をデコボコさせることによっていかにもデザインしたように装う傾向がありました。実際そういった建物が建築雑誌の紙面を賑わしていました。

圓堂政嘉は、そういったスタイルの設計を建築雑誌の「新建築」に引っ掛けて「珍建築」と言って忌み嫌っていました。むしろ建物の形体をできる限りシンプルで整形な形に整え、外壁面をできる限りプレインに見せることにこだわりました。そうすることによって、建物全体のフォルムを際立たせ建物を美しくみせるのが、彼のデザインの特徴でした。 彼がこういったデザイン手法をとったのは、ただ単にフォルムの美しさだけを狙ってこうしたのではありません。こういったデザイン手法の方が、建物全体の形体を不整形にして外壁面をデコボコさせた建物より、彼の命題であった「外壁のカーテン・ウォール化」が、より容易にかつ経済的にできたからです。外壁をカーテン・ウォールにすることによって、精度が高く出来栄えの良いプレインな外壁面ができ、より建物全体のフォルムを際立たせ、美しく仕立てることができたからです。

しかし、シンプルな形ほど美しく仕立てることが難しく、つくり手に、建物を構成する部位一つ一つの細かなところまで気配りできる感性と、一つ一つの部位が調和して全体がシンフォニーを奏でるように仕立てる手腕を要求します。つまり「芸術家の目と手」が必要です。

建物のデザインを語るときによく使われる言葉に、キャラクター(個性)、コンポジション(構成)、プロポーション(比例)、バランス(釣り合い)、ディテール(詳細)、マチエール(材料)、カラー(色)、グロス(艶)、コントラスト(対比)等がありますが、建物を構成する部位一つ一つにこれらのデザイン要素があります。各部位の各デザイン要素一つ一つが、出来栄えがよくないと美しいものに仕上がりません。そして、部位一つ一つが全体でも調和したものに仕立てられていないと、美しいものになりません。

これは「美人の顔を描くこと」に似ています。目、眉、鼻、口一つ一つがたとえうまく描けたとしても、その配置(コンポジション)が悪ければ「美人の顔」にはなりません。「福笑い」のおかめ顔が端的な例です。目、眉、鼻、口一つ一つの部分がうまく描けたとしても、お互いの相関関係が悪ければすべてが台無しになるいい例です。目の形がたとえきちんと描けたとしても、目の大きさが少しでも間違えば、バランスの取れないおかしな顔になってしまいます。すべての部位の各デザイン要素が完璧に描き上がらないと美人の顔ができあがりません。

シンプルな建物を美しく仕立てる難しさは、これと同じです。建築家は、建物を構成する各部位の各デザイン要素を出来栄えのよいものに仕立て、なおかつ、それらを総合した全体像でも調和の取れたものに仕立てなければなりません。圓堂政嘉は、これを私達所員に要求し、追及させました。つまり、「芸術家の目と手」を持てと。

私は、圓堂建築設計事務所に就職した最初の一年間、圓堂政嘉が要求するこの「芸術家の目と手」を養うため、仕事が終わった後毎晩石膏デッサンの学校に通わされました。私だけでなく一年生全員が、一年間石膏デッサンの修行に行かされました。 日本の大学の建築学科は、理数系の学部にありますが、ヨーロッパやアメリカは芸術系の学部にあります。日本と欧米では建築の勉強のスタートから、「建築家の資質として何が必要か」という根本のところでも違っています。圓堂政嘉は日本の教育システムでは、真の建築家を育てることはできないと考え、その資質を育てる教育の一環として石膏デッサンの修行に行かせました。

私自身趣味で絵を描いていましたので、石膏デッサンは他の新入生より比較的多く描いていたと思います。しかし、この修業期間中程、石膏デッサンを集中的に描いたことは一度もありません。この修行ではじめて気がついことがあります。石膏像の各部分一つ一つの大きさと位置と相互関係を正確にとらえ、それを紙面にきちんと描き込むことの大切さです。それも、常に全体の調和、バランスに目を配りながら、各部分の詳細をきちんと描き込むことの大切さです。そうしないと、目の前のアグリッパ、ブルータス、ミケランジェロ、モンテニューの石膏像の力感が捉えられません。石膏デッサンには、建築設計に相通ずるところがあって、私にとってはたいへん勉強になりました。圓堂政嘉が口うるさく説いた、建築設計におけるディテールの大切さ、コンポジションの大切さを、この石膏デッサンから学ぶことができました。

石膏像:聖ジョルジュ 石膏像:聖ジョルジュ
石膏像:ガッタメラータ石膏像:ガッタメラータ